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アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625) : ミニ英和和英辞書
アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625)
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625) : ウィキペディア日本語版
アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625)

アンナ・フォン・プロイセン(Anna von Preußen, 1576年7月3日 - 1625年8月30日)は、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘で、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの妃。
アルブレヒト・フリードリヒは、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世と妃マリア神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘)の娘マリー・エレオノーレとの間に7人の子をもうけていたが、2人の男子はいずれも夭折していた。そのため、アルブレヒト・フリードリヒの死後はその後見を務めていたブランデンブルク選帝侯家(同じホーエンツォレルン家の宗家にあたる)がプロイセンを相続するという契約がなされていたが、この相続契約を補強するものとして、選帝侯ヨアヒム・フリードリヒの長男ヨハン・ジギスムントとアルブレヒト・フリードリヒの長女アンナの結婚が取り決められた。アンナはまた、母方を通じてクレーフェ公領マルク伯領、ラーフェンスベルク伯領の相続権も有していた。
アンナとヨハン・ジギスムントは、1594年10月30日ケーニヒスベルクで結婚した。その後、1603年にアンナの四妹エレオノーレがヨアヒム・フリードリヒの後妻となり、1604年に次妹マリーがヨアヒム・フリードリヒの弟であるバイロイト辺境伯クリスティアンと結婚し、プロイセンとブランデンブルクの関係はさらに強化された。
1618年、父アルブレヒト・フリードリヒが死去すると、既に選帝侯位を継いでいた夫ヨハン・ジギスムントがプロイセン公も継承するが、翌1619年に自身も死去し、アンナとの間の長男ゲオルク・ヴィルヘルムがプロイセン公兼ブランデンブルク選帝侯となった。
== 子供 ==
アンナはヨハン・ジギスムントとの間に4男4女をもうけた。
*ゲオルク・ヴィルヘルム(1595年 - 1640年) - プロイセン公及びブランデンブルク選帝侯
*アンナ・ゾフィー(1598年 - 1659年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ・ウルリヒと結婚。
*マリア・エレオノーラ(1599年 - 1655年) - スウェーデングスタフ2世アドルフと結婚。
*カタリーナ(1602年 - 1644年) - トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルと結婚、後にザクセン=ラウエンブルクフランツ2世の息子フランツ・カールと再婚。
*ヨアヒム・ジギスムント(1603年 - 1625年)
*アグネス(1606年 - 1607年)
*ヨハン・フリードリヒ(1607年 - 1608年)
*アルブレヒト・クリスティアン(1609年)




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625)」の詳細全文を読む




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